小学生の頃から秋葉原に通い,部品を集めてラジオを作る,ラジオ少年でありました.早稲田大学修士課程を修了し,平山博教授の推薦で,何の迷いもなく1967年,日本電信電話公社(以下,電電公社),今のNTTに入社しました.入社直後の幹部の挨拶で開口一番,「日本にはアメリカのような防衛産業はない.その代わりを担うのが,電電公社の技術開発.裾野が広く日本の産業を引っ張っている.君たち技術系の責任は重い.」と言われ,以来その言葉が今もよみがえります.新入社員の真っ白な頭にこのことが何の疑いもなくすり込まれ,技術者として情熱をかきたてられました.電電公社の独占の弊害とよくいわれますが,少なくとも私は,他ができないのだからこそ責任を果たそう,と意気に感じたものでした.「通信ソサイエティマガジン」に,私の技術者歴を書く光栄を得ましたので,果たしてその責任を果たせたか,反省をしつつ振り返りたいと存じます.
テーマごとに一くくりに記述したことから,前後関係が必ずしも正確でないこと,企業名・組織名に,通称を用いたことをお許し頂きたい.
理工系出身者は電電公社入社時に,研究部門と事業部門に配属分けされ,更に事業部門は技術専門分野を定めて,それを基本に人事育成がなされます.私は事業部門,専門は「データ通信」の配属となりました.当時,電電公社は,電信電話に次ぐ新しい事業として,データ通信事業(後のNTTデータの母体)を開始しておりました.データ通信はデータ伝送システムと情報処理を統合した技術と定義され,最も先端的な分野でした.今にして思えば,当時既に電信電話の将来を予想し,次の新しい事業を立ち上げた幹部の先見性はすばらしいものです.
私の担当したシステムは,「科学技術計算システム」(DEMOS:Dendenkosha Multi-access Online System)で,大形計算機(といっても今のパーソナルコンピュータ(以下,パソコン)より性能が落ちる)を多数の利用者と通信回線で結び,相互に干渉することなく共同利用するシステムで,いわゆるTSS(Time
Shearing System)でありました.当時の米国の状況はMIT(Massachusetts Institute of Technology)がIBMの機械を使い,CTSS(Compatible
Time Shearing System)を開発し,更にMULTICS(Multiplexed Information and Computing
Service)(1)の開発が開始されたところでした.純国産,「日本で初めての商用サービス」という錦の御旗の下,電電公社は大阪大学のシステムで実績のある日本電気と組み,開発を開始したものです. ハードウェアは汎用コンピュータを用いることが方針として決まっており,NEAC2200モデル500でした.手元にこのマシンの諸元があります.「IBM1401の流れをくむキャラクタマシン(2)で(まだバイトという概念はありません),クロック5.3MHz,メインメモリは磁気コアメモリで最大512キロキャラクタ,本体重量800kg,消費電力4.2kV・A,国産機で初めてモノリシック集積回路(3)を全面的に採用した大形機」とあります.私が今使っているパソコンは2年前のもので,RAM2GByte,クロック2GHzですから,3桁以上性能が高く,重量,消費電力は2桁小さいということになります.
ソフトウェアは,NEACの標準OSは使わず,TSS用としての専用OSを開発することとなりました.TSSにおいては動作中の利用者のプログラムは全部をメインメモリに置くことはメインメモリが不足してできません.そのため端末からの入出力待ちの時間などで利用者プログラムが走っていない間,あるいは長時間特定のプログラムが占有しないように,二次記憶装置(当時は磁気ドラム)にはき出されます.IBM360以降のハードウェアにおいては(現在のパソコンも),仮想記憶装置という機構が準備されていますが,当時のハードにはなく,ベースレジスタとソフトウェアによって実現しました.また利用者に提供する基本となる,FORTRANコンパイラもコアメモリの占有を小さくするため新規開発となりました.また,利用者のプログラムやデータを記憶する集合ディスクパック装置も新規開発となり,更にシステムの処理能力評価をGPSS(General
Purpose Simulation System)(4)により並行して行うという,現在で言うコンカレントエンジニアリングによる大形プロジェクトでした.
私の担当は,システムの高信頼性の実現でした.新入社員でありながら,まだフォールトトレランスなどという概念のないときに,汎用機でできるだけ高い信頼性を実現するよう,システム構成やソフトウェアの方式を検討しました.これらの開発は,我々電電公社の技術者と日本電気の技術者が,工場で机を並べ一体となって行われました.毎日のように新しいアイデアを出し,開発工程も一体で行っていました.また,OS開発の一部,コーディングからデバッグ,結合試験まで一連の作業を担当し,マシンの前で寝袋にくるまり,泊まり込みで日夜頑張ったものです.最近のように発注者が仕様を定め,受注者がそれに従って開発を行うというクールな関係では,とてもこのような大規模で先端的なシステム開発は成功しなかったと思います.
大規模システムでは,明確な設計方針があり,それを現場の作業者まで共有することが重要です.開発現場での創意工夫で,性能やバグの発生が桁違いに向上すること,大規模システムの開発は良い人間関係から,など教えられることが多く,後の「現場重視」の姿勢はこの体験からです.プロジェクトリーダは,データ通信本部調査役大前義次氏(その後茨城大学教授)で,「世界に冠たるシステムを作ろう」が合言葉でした.また川村敏郎氏(後に日本電気副社長),浜口友一君(後にNTTデータ社長)はじめ,様々な優秀な方と御一緒しました.
DEMOSは,苦労の末1971年3月に東京で,同年6月に大阪で,1972年8月に名古屋でそれぞれサービスが開始され,1973年度末ユーザ数458,端末数520を数えました[1].その後,DEMOSは,電電公社が開発した標準大形電子計算機DIPS(Dendenkosha
Information Processing System)による,DEMOS-Eに引き継がれ,当初の目的を達成しました.
最近,シンクライアント,クラウドコンピューティングが時流ですが,当時の端末はプリンタとキーボードのみでしたから,まさしくセンタ集中で,歴史は繰り返すを実感致します.私の担当した高信頼機能については,サービス開始時に間に合わず,その後のバージョンアップで追加されました.少々凝りすぎと反省しています.自分たちに与えられた,時間と開発リソースを考え,適切なものと割り切る姿勢も重要と痛感致しました.
次に開発に関わったのはディジタルデータ交換網[2]でした.従来のデータ通信システムは,コンピュータを中心とし,多数の端末が専用線を通じてスター形に接続される形式のものが大部分でした.しかし,1970年代になり,コンピュータが広い分野に普及し,社会活動が多様化してくるのに伴い,一つの端末で様々なコンピュータと通信したいとの要望が出てきており,更に,分散設置された複数のコンピュータを結合してより高度のシステムを構成する,いわゆるコンピュータネットワーク形成の動きが出てきていました.そのため,専用線を電電公社から借用し,利用者が設置したコンピュータにより,データを蓄積,交換し,データ網を構成したり,公衆網(電話網)で集線し,それを専用線で高速にコンピュータに接続するなど,自由な回線の利用形態を認めよとの要望が,電電公社や郵政省に出されていました.これらの回線開放の要望に公衆電気通信法の改正で応える一方,電電公社自身でそのような要望に応える新しいネットワークを開発するということになりました.
当時,電電公社の電気通信研究所では,二つの方式のディジタルデータ交換網を開発していました.回線交換方式とパケット交換方式です.前者はディジタル伝送されたデータをディジタルのまま交換し,ディジタルの1リンクを構成し,高速の(といっても最大48kbit/s)データ伝送するネットワークです.後者は蓄積交換システムで,現在のインターネットでも使われているパケットによるネットワークでした.開発当初,その二つの方式は並行して行われ,私としてはDEMOSの開発経験からして,コンピュータ通信は,データはバースト的に流れるので,パケット方式が親和性があると固く信じており,パケット方式に絞り商用化すべきと考えておりました.しかし社内では2方式とも譲らず,なかなか絞りきれず,適用領域が異なるとして,結局2方式が導入されました.その後,ISDN(Integrated
Services Digital Network)(5)になって,回線交換方式とパケット交換方式は一つのサービスとして統合されることになります.
私は1976年から,技術局において,片山泰祥君(現在,NTT常務取締役)や成瀬秀夫君(現在,フジクラ取締役)などとともに,ディジタルデータ交換網の導入計画,料金体系,番号方式,標準化など外部条件を担当しました.当時,データグラムかバーチャルコールかの議論が盛んにありました.パケットはARPANET(Advanced Research Projects Agency Network)がルーツですが,もともとコールという概念がなくパケット一つ一つが独立で,通信の接続関係(コネクション)はエンドシステム同士で行うとするもので,データグラムと呼ばれていました.それに対し,カナダ,フランス,イギリスそして日本の電気通信事業者(電電公社)は,データグラムでは網の品質を保証できないとして,バーチャルコールを開発すべきと主張していました.
このプロトコルは,ITU-T(当時はCCITT)のStudy Group VIIでX.25として標準化されました.この標準化に当たって,NTT研究所の石野福弥氏(後に早稲田大学教授)が活躍しますが,私もそのサポートで何度もジュネーブに足を運びました.X.25は,通信の開始時に経路を設定し,以降のパケットは同じ経路を通るバーチャルコール方式を基本とし,フロー制御(6)を行い,ネットワークによる品質を保証するサービスで,これを採用しました.一方のデータグラムは,ネットワークの機能は軽く,後のインターネットでTCP/IPとして標準となりました.網品質を保証する(ギャランティ)か,保証しない(ベストエフォート)かの議論は,その後も続くことになります.
もう一つお話ししておきたいのは,料金方式です.当時は電話網の距離別時間課金が常識で,回線交換方式はそれに準ずるにしても,パケット方式はどのようにすべきか大いに議論がありました.ユーザごとに,利用したリソースに応じ情報量課金とすること,回線効率が高いので全国一律料金にできることを社内,郵政省に理解してもらうのに,大変苦労しました.窓口の営業局とともに準備した資料は,積み上げると1mを超えたことを記憶します.これらの議論に,大学間コンピュータネットワークを推進しておられた,故猪瀬博教授の絶大なる後押しがありました.
NTTのパケット交換網は最盛期85万回線の利用者を抱え,法人向けネットワークとして発展し,最近その使命を終えました.また,パケット開発に関わった,多くの技術者は後のインターネット事業の中核として活躍しています.
電電公社事業部門の人材育成方針は,「転々公社」と呼ばれ,2〜3年で転勤します.専門技術をしっかり持つことの他に,将来経営幹部になるためと称し,人事異動が定期的に行われました.私の場合は,近畿電気通信局の調査課長,技術局総括調査員,四国電気通信局の保全部長を体験させてもらいました.前者は,技術局の行う商用試験の現場協力や,地方独自の技術開発を行う他,若手技術系社員の育成,技術系新入社員の採用業務を担当します.その際,故喜田村善一教授をはじめ,大阪大学,京都大学の多士済々の先生方にお近づきになることができました.技術局の総括担当においては,電電公社の技術戦略の中枢に触れ,前田光治技術局長,桑原守二総括調査役の薫陶を得ました.また,保全部長は電気通信設備全体の保守の担当でした.現場の大勢の人たちに支えられて通信設備が維持されていること,技術開発の責任は大きいことを改めて認識した次第です.
1982年,武蔵野電気通信研究所交換応用研究室長となりました.主に移動通信網(携帯電話のネットワーク)の開発や,ファクシミリネットワークの開発を担当する研究室で,研究部長の加藤満左夫氏,統括調査役の塚田啓一氏の方針で,自由な雰囲気が残っておりました.当時は研究室長の予算の自由裁量の範囲が大きく,全体予算の範囲であれば新しい研究を立ち上げることができました.また,私の専門のデータ部門から見ると,同じソフトウェアを扱っていながら,交流はほとんどなく,ネットワークの制御にコンピュータを利用することはまだ行われていませんでした.
この頃,日本の電話保有台数は米国に次いで2位,しかし電話機当りの通話回数は米国の半分以下でありました.また市外トラヒックを見ると,米国では800番サービス(フリーホン)を始めとする新電話サービスの伸びがすさまじい.日本はそれまで,電話設備が不足し,電話架設を申し込みがあったらすぐに付けること,全国をダイヤルでつながるようにすることを目標にしてきましたので,新しい電話サービスまで手が回っていませんでした.そこで,サービス機能の面で米国に追いつくものを開発しようと取り組みました.
その際,柔軟で多量のデータを処理できるコンピュータを利用することを前提に考えました.またサービスを個別に開発するのではなく,新サービスのための網機能をどのように配備するかネットワークアーキテクチャを定め,統一的な考え方で機能を追加できるようにしました[3],[4].新サービスのための網機能は,呼制御機能の他,ディジタル信号処理機能,制御用のデータですが,それらを特性に応じ2層に分離配備し,層間を共通線信号網(7)で結ぶというものです.制御用データは交換機個々に分散させるのではなく,サービス制御局に集中させ,一方音声を変換・蓄積したり,マルチ接続のためのディジタル信号処理機能は,トラヒックの流れに応じ分散させるという考えでした.これは後に,インテリジェントネットワーク(IN)(8)と呼ばれました[5].
交換応用研究室では,相沢洌君,重松直樹君とともに手始めにフリーホンサービス(商品名フリーダイヤル)を開発し,その後,この体系で提供された新電話サービスはマスコーリングサービス(テレドーム)[6],呼数カウントサービス(テレゴング),全国ユニバーサル番号サービス(eコール),仮想専用網,音声蓄積サービス(伝言ダイヤル)などです.これらのサービスは現在も,NTTコミュニケーションズ,NTT東日本,NTT西日本に引き継がれ,高収益を上げています.
付け加えれば,この研究室の主流であった,移動通信網のチーム(小山稔君,中島昭久君など)は,ドコモ社発足と同時に転籍し,ドコモにおけるネットワーク開発の中核となります.私は,コンピュータシミュレーションを駆使し[7],階層構成ネットワークの設計方法を研究し,1985年早稲田大学より学位を授与されました.
1985年,研究所から再び技術部(以前の技術局,その後,ネットワークシステム開発センタ)へ転勤となりました.それはちょうど,電電公社が民営化し,NTTとなったその日でありました.担当は通信網部門長で,NTTのネットワークの基本構想を練る,重要な担当でした.
それより前,1978年に国際コンピュータ通信会議において,電電公社副総裁の故北原安定氏は「現代社会におけるコンピュータと電気通信」と題し,記念講演を行い,「高度情報通信システム」(INS:Information
Network System)の構想を提唱されていました.このINSを実現するネットワークの具体化の推進が,私の役割となりました.
具体的には,ネットワークのディジタル化,共通線信号網の全面的導入,それによるISDNの提供[8],IN(Intelligent Network)による高度電話サービスの提供などです.このため,研究所から専門家を集め,当初20名程度の部門は100名を超える大部隊となり,組織も通信網技術部となりました.検討分野は,ネットワーク構成法のみならず,アクセス系,ネットワーク品質,ネットワークの信頼性,トラヒック理論,信号方式,インタフェース条件,OSIプロトコル,番号方式,料金方式,階層ソフトウェアなど多岐にわたり,ネットワークに関わる全ての知見を集めました.そのとき「INS通信網基本計画」として,定めたネットワークアーキテクチャ(図1)[9]は,NTTのネットワークの構築,オープン化のための標準となり,海外でも広く認められ,第三世代の携帯電話網に影響を与えました.
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1990年に研究開発本部長戸田巌氏から声が掛かり,「新ノードシステム」の開発に交換システム研究所長として,取り組むこととなりました.
新ノードシステムは,従来のディジタル交換機D70の後継機種の位置付けで,本格的なマルチメディア時代の到来に向け,既存の電話サービスのほか,ISDN,B-ISDN(Broadband Integrated Services Digital Network)(9),IN系サービスを同一設計思想で実現するものです[10].ハードウェア,ソフトウェア共に,新規設計・新規開発の大型プロジェクトで,ねらいは
@ 要求条件に応じ柔軟なシステム構成がとれる
A ネットワークのオープン化,最新技術に対するオープン化に柔軟に対応する
B ソフトウェアの生産性の向上を図る
C オペレーションの高度化を図る
という高い目標を掲げていました.そして,ネットワークアーキテクチャと同様,トップダウン形のアーキテクチャを定め,ハードウェアのモジュール化を図り,ソフトウェアについてもCTRON(Communication and Central TRON)(10)をベースとした階層化ソフトウェア構造を採用しました.
このシステムの開発には,研究所員のみならず,日本電気,日立,富士通,沖電気,ノーザンテレコムの開発メーカの皆さんを含めると,千人を超える人たちが参加しました.そのための開発情報の共有化ツールも併せて整備し,全員の仕事の進捗状況を共有化し,開発の効率化を図りました.
大型プロジェクトのトップとしての重要な仕事は,プロジェクトの構成員からいかにして能力を引き出すかです.どのような組織でも,構成員は次のような3層構造になっているといわれています.第1層は,刺激を与えるだけで,自発的に能力を発揮する人.第2層は,安定を保証すれば成果を出す人,第3層は刺激を与えても,安定を保証しても成果を出せない人.そして,その割合は2:6:2などといわれています.任された組織は,幸い上の層に分布が偏る優れた組織でしたが,組織運営を成功させるには,最大多数の層の成果にかかっています.そのため,たびたび全員を講堂に集め所内講演を行い,情報を共有し,力を鼓舞しました.
NTTの中には,この大きな開発の是非について議論もありました.開発の意義を確信し,反対を振り切って社内意識統一を図りながらの開発でした.新ノードシステムの開発は後任の鈴木滋彦氏(その後NTTアドバンステクノロジ社長)に引き継がれて完成し,1996年からNTTの設備ビル(電話局)に大量に導入され,大幅なネットワークコストの削減が図られました.その後の変化にも対応し,現在も現役でサービスを提供しています.
1994年NTTは「マルティメディア基本構想」という,経営戦略を発表しました[11].当時の副社長の宮津純一郎氏が構想されたもので,従来の電話サービスの維持,高度化に加え,高速コンピュータ通信,映像通信など「魅力ある新しいサービスの積極的な展開」を図ろうとするものでした.NTTの経営もインフラストラクチャ整備から新たなサービスを開拓する需要開拓形経営への転換の意思表示でありました.私は,1994年にこのための司令塔であるネットワーク部長と,合わせて技術局の流れをくむ,開発部隊の責任者,ユーザシステム部長を兼務することとなりました.
マルチメディアはインターネットがその中心的役割を果たすと予見されましたが,当時はまだ愛好家のためのもので,モデムと電話回線のダイヤルアップが主体で,料金が高く低速でした.それを料金を気にせず使える「常時接続」にすること,映像も伝送可能な高速化が主要課題でした.地域IP網とISDNを組み合わせた,常時接続形のアクセス系を提案し開発を開始しました.現在の,NTT東西会社によるフレッツサービスの原形となったものです.また,光回線のFTTH(Fiber To The Home)サービスとしては映像伝送サービスが本命と考えられ,研究所とともに様々な方式の試作を行いました.浦安,横須賀,立川で,CATV会社の協力の下,900世帯のモニタを対象に「マルチメディア共同利用実験」として,大掛かりな実験を行いました.その後もFTTHの研究開発は進み,現在それは,IP多重による方式,光波長多重による方式に集約され,前者はNTTぷらら社により「ひかりTV」,後者はNTT東西会社により「フレッツ・テレビ」として提供されています.
高速インターネットには光が本命とは承知していても,本格導入まで時間があり,かといってISDNでは不十分でした.1990年代に米国ではVOD(Video
on Demand)のサービスとして,既設のメタルケーブルで高速伝送のできるADSL(Asymmetric Digital Subscriber
Line)(11)に注目が集まっていました.インターネットへの適用のため,1997年頃NTTのアクセス網研究所において,細い銅線(我が国では米国と違い0.32mm銅線が一部に使われている)のための損失,ISDNの時分割伝送方式(いわゆるピンポン伝送)の漏話雑音による伝送速度劣化,あるいはケーブルの分岐の影響などを調査するため,フィールド試験が行われました.その結果お客様の収容条件によって伝送速度が異なる,ベストエフォート形のサービスという条件で提供することとなります.
ここで一つエピソード.1994年に技術調査部の飯塚久夫君(現在ビッグローブ社長)とともに,ワシントンDC郊外のベルアトランティックの電話局にADSLによるVODの見学に行ったことがあります.その際,孫正義氏(ソフトバンク社長)を御案内しました.私も感動しましたが,そのときの孫さんの興奮の様子が忘れられません.ソフトバンク社のADSL事業による大発展の原点はここにあると思います.
後先になりましたが,1985年に明治以来独占が続いていた電気通信市場に競争原理が導入されることとなりました.電電公社は民営化され日本電信電話株式会社(NTT)となる一方,新規に電気通信事業者(NCC:New
Common Carrier)が参入できるようにし,複数の事業者により通信サービスが提供されることとなりました.電電公社は,競争による刺激がないため,合理化の努力の不足,労働意欲の低下など独占の弊害が指摘され,そのため新規参入を認め競争による市場メカニズムを通じ電電公社の効率化を図ることとしたものです.私は通信網技術部長,あるいはネットワーク部長として,NCCを迎え撃つための新規サービスの開発とともに,「ネットワークの相互接続の問題」に少なからず関わることとなります.
エンドユーザ間を接続して初めて成立する通信サービスの場合,利用者から見ると,通信する相手の数が多い方が利便性は高く,大きなネットワークを持っている事業者が有利で,NCCは圧倒的に不利になります.通信事業は自然に寡占化されることから「自然独占」と呼ばれたりします.したがって新たな通信事業者が参入する場合,孤立した独立のネットワークはあり得ず,既存事業者との相互接続が必須になります.通信事業者間の接続条件や接続点を明らかにし,接続に必要な機能・情報を提供することを,NTTは「ネットワークのオープン化」と呼びました.
競争の導入は,いわゆる長距離系NCCの参入により採算の良い県間の長距離通信の分野から始まりました.そのため相互接続点をPOI(Point of Interface)と定め,原則,県に一つの関門中継交換機を新たに設置しました.技術的に見ても,まだ電話網はアナログからディジタルへの移行期であったため,NCCへの通話品質を一定にすること,相互接続のための機能(事業者識別のための番号翻訳,発ID送出,回線接続,課金,故障時の切分け機能など)を集約する必要性からそのようになったものです.
その後,NTTは1995年に更なる競争環境整備(ボトルネック解消)のため「全ての接続要望に応える.他事業者とNTTとの相互接続の条件に関してイコールフッティングを確保する」という,オープン化宣言ともいうべき画期的な発表を,当時の社長児島仁氏から行いました[12].それに基づき,ネットワークのオープン化を次々と行っていきました(図3)[13].まず地域系市場での競争に対応するため,相互接続点を市内交換機に広げること,NTTの加入回線を活用した事業も可能とする,アクセス系のオープン化が図られました.これらにより,市内網をNCCに開放することとなり,今まで各県に1〜2か所しかなかったPOIは,全ての電話局に拡大し,地域系通信業者,CATV系通信事業者を含めた新たな参入者が続きました.
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更に,競争は単純な料金の競争からサービスの競争も可能とするよう要望がありました.そのためネットワークとネットワークの間で,制御用の信号を送受するため,NTTの共通線信号網をNCCの信号網と直接接続することとなりました.加えて,NTTの市内交換機とNCCのサービス制御局と連動させるため,市内交換機ソフトウェアを改造し,付加機能をメニュー化しオープン化しました[14].これにより,フリーホンサービスや仮想専用網のような高度サービスを,複数事業者にまたがって提供することができるようになりました.ネットワーク機能をソフトレベルまでオープン化した例は世界にありません.以上の他,利用者が事業者を変えても電話番号を持ち回れるナンバポータビリティ[15]の実現,電柱・管路の開放,網同期クロックの開放など,積極的なオープン化が図られました.
これらのネットワークのオープン化を可能としたのは,NTTが従前からネットワークのディジタル化,共通線信号化,光化を推進していたためです.またネットワークの構造自体をオープンにしなければならず,それには前述のネットワークアーキテクチャが役に立ちました.技術的検討は,加納貞彦氏(その後早稲田大学教授)を中心に行われ,事業者間の標準化は,当時私が議長をしていた電信電話技術委員会(TTC)において行われました.
時間が後になりますが,高速インターネットのために,NTTのメタルケーブルを活用し,NCCによるADSLの提供が強く要請され,技術的・制度的議論の末,NTTの加入電話回線をMDF(Main
Distributing Frame)で直接NCCに接続することとなりました.これは究極のオープン化でドライカッパと呼ばれています.その接続のために必要となる,NCC所有の設備(スプリッタ,集合モデムなど)をNTTの電話局に設置すること(コロケーション)を可能とし,NCCによるADSLサービスを提供しやすくする環境が整えられています(図4)[16].以降,我が国においては,ボトルネックは完全に解消され,膨大な設備を用意しなくとも事業が可能となりました.
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当初NTTでは「オープン化は敵に塩を送るもの」として,社内に強い抵抗がありました.しかし,私はネットワークのオープン化は通信市場の活性化をもたらし,情報通信産業全体を発展させるとともに,NTT自身の体質も改善され発展できると信じておりました.結果として,NTTのネットワークは世界で最も開かれたネットワークとなり,競争の進展で急速な料金の低下をもたらし,その後の携帯通信・インターネットを含む情報通信の大発展に寄与することとなったと確信しています.
民営化5年目に当たる1990年,NTTの巨大性,独占性の弊害を除去する措置として,NTTの構造的措置(再編成)の議論が始まりました.NTTは上に述べた,ネットワークの完全なオープン化によりボトルネック独占は解消されたと主張しましたが,様々な長い議論の後,NTTは1996年,持株会社の下に,長距離会社(国際通信事業を含む)と,2社の地域会社に再編成するという方針を受諾しました.
このことはネットワークの分割を意味します.ネットワークの責任者として,今まで手塩にかけてきたネットワークを分断することとなり,やむにやまれぬ気持ちでした.ただし救いは,研究部門が日本の国際競争力の源泉であるということが認められ,基盤的研究は持株会社に継承されることとなったことでした.
NTTにおける私の最後の仕事が,「地域会社とNTT長距離会社との間の接続形態は,地域会社とNCCとの間のものと同等にする」[17]ために,再編成後のネットワークを長距離,東日本,西日本に,物理的に3分割することだったというのは,皮肉なことでした.
1998年,NTT常務取締役を最後にNTTを退職し,関連会社に転出しました.そこでも,NTTのネットワークの保守,ADSLや光アクセスの開通工事,インターネットプロバイダの立上げなど,ネットワークの仕事は続きました.「NTTのネットワークとともに40年」でありました.様々な環境激変の中,巨大インフラストラクチャであるNTTのネットワークを,常に最新・最良の状態に改良し続け,世界で最も進んだブロードバンドネットワークに到達できたことは,技術者冥利に尽きます.大形電子計算機,電子交換機,光システムなどの開発が,知的財産の確保,人材の育成,周辺技術への波及などを含めると,産業界に果たした役割は大変大きなものでした.
とはいえ,手掛けたシステムの中に,残念ながら思いの外,短命に終わりつつあるシステムもあります.それは,ISDN,PHS(Personal Handy phone System)(12),ATM(Asynchronous Transfer Mode)(13)などです.これらは,世界で先頭切って開発したものですが,その後に開発された技術,特にインターネットによるIP技術の経済優位性により,主流の座を譲ったものです.だからといって研究開発は後追いの「2位」で良いはずはありません.「1位」を目指し,必要なリスクは取らないといけません.更に最近,インターネットのぜい弱性が指摘されており,品質を保証したネットワークの必要性が叫ばれ,次世代ネットワーク(NGN:Next Generation Network)(14)が主流になる日も近いと考えております.
日本は今,閉塞状況といわれています.もの作りにおいて隣の国々にお株を取られてしまいました.誤解を恐れず言えば,日本を救うためにNTTの技術力・組織力を使わない手はありません.通信に競争を導入したとき,新規参入業者に比べ,NTTの力が大きすぎるので,NTTを弱くして競争環境を整えるという,「非対称規制」は適切なものであったかもしれません.しかし昨今の状況を見ると,競争事業者も十分に力を付けて活躍しており,そろそろNTTに対する規制を緩め,対等に競争できるようにする時代になっているのではないでしょうか.加えてグローバル競争の時代,国内予選で苦労したNTTをもう一度復活させ,本戦に参加させるのがよろしいのでは,と考えます.最後に,通信ソサイエティの若手会員の皆さん,技術革新で我が国の産業力向上に寄与するという原点に立ち返って,世界市場に向け頑張る必要があります.遠慮は無用,志を高く持って奮起して頂きたい.
実名を挙げた方々以外にもたくさんの人たちにお世話になりました.苦楽を共にした仲間たち,これは私のもう一つの大切なネットワークです.改めて感謝申し上げます.家族の温かい支援のあったことも付記致したい.記憶を頼りにしたため正確性を欠いていること,耳障りな自慢話となったことをお許し下さい.意見はあくまでも個人的なものです.
(1)MULTICS(Multiplexed Information and ComputingService):様々な斬新で貴重なアイデアを盛り込み,MITとゼネラル・エレクトリック(GE)社が開発したTSSシステム.必ずしも十分な性能が出ず,商用には至らなかったが,その後MULTICSに関わっていた人々がAT&Tに移籍し,その反省を踏まえUNIXシステムを開発.UNIXは多くの領域でMULTICSの影響を受けたといわれている.
(2)キャラクタマシン:キャラクタ単位でデータを扱うコンピュータ.キャラクタマシンのメモリ構成はデータ部6bitに加え2bitの制御ビットがあり,都合8bit単位である.制御ビットで可変長データを扱うことができた.
(3)モノリシック集積回路:単一のシリコン上に全ての回路を搭載した集積回路.現在の集積回路のこと.ハイブリッド集積回路に対比した言葉.
(4)GPSS(General Purpose SimulationSystem):汎用シミュレーション言語.離散系のシミュレーションを行う.
(5)ISDN(Integrated Services Digital Network):サービス総合ディジタル網.交換機・中継回線・加入者線まで全てディジタル化されたディジタル回線網.64kbit/sのBチャネル2本と16kbit/sのDチャネルからなる.Dチャネルには網制御信号の他パケットデータも伝送できる.
(6)フロー制御:ネットワークの中に準備されたバッファの量以上にパケットが流入すると,過負荷が生じパケット損が発生する.それを防止するため帰還信号により,流入パケットを制御する方式.当時電電公社は,エンドツーエンドで送達確認を行うフロー制御方式を提案していた.
(7)共通線信号網:電話網やISDNにおいて,全ての交換機を有機的に動作させるために,電話番号や交換機状態などの信号を交換機間でやり取りする必要がある.そのための信号を伝送するネットワークを共通線信号網という.信号はパケットの形で伝送される.交換機がこの網の端末の位置付けで,高い品質が要求され完全二重化している.通常は開放されることはない.
(8)IN(Intelligent Network):ネットワーク内にサービス制御局と呼ぶコンピュータを設置し,そのデータベースや処理機能を使って高度(インテリジェント)な通信サービスを提供可能にしたネットワーク.
(9)B-ISDN(Broadband Integrated Services Digital Network):広帯域サービス総合ディジタル通信網.ITU-T標準の一つで150〜622Mbit/sの伝送速度を持つ高速なISDNのこと.動画(いわゆるテレビ電話なども含む)などの広帯域アプリケーションの利用を目的の一つとし,ATM技術(13)私の技術者歴13MyFrontierLifeを前提としていた.
(10)CTRON(Communicationand Central TRON):坂村健教授(東京大学)によって提唱されたTRONプロジェクトによって仕様が作成された,通信機器制御に特化したリアルタイムオペレーティングシステム.
(11)ADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line):一般のアナログ電話加入回線を使用する,上りと下りの速度が非対称(Asymmetric)な高速ディジタル伝送技術.通常のアナログ電話が4kHz程度の帯域のため,それより上の帯域を用い,高速伝送を行う.ADSLのほか,VDSL(Veryhighbit-rateDSL),長距離向きのReachDSL,HDSL(High-bit-rateDSL),SDSL(SymmetricDSL)などがある.
(12)PHS(Personal Handy phone System):通信のパーソナル化を目指して,ISDNとINをベースに開発された移動通信システム.時分割多重方式のエアインタフェースでISDNの加入者線を延長し,INにより追跡接続する方式.
(13)ATM(Asynchronous Transfer Mode):多重化方式の一つで,データを53Byteの固定長データに分割して「ATMセル」という単位で送受信する方式.セルフルーチングスイッチによるハードウェアによる交換機を前提とし,高速の品質保証サービスを目指した.
(14)NGN(Next Generation Network):従来の電話網がもつ信頼性・安定性を確保しながら,IPネットワークの柔軟性・経済性を備えた,次世代の情報通信ネットワーク.2008年3月から商用サービス開始.
[0]石川宏,“私の技術者歴−NTTのネットワークとともに40年,”信学通ソマガジン,no.16,p.4-13,春.2011.
[1]郵政省,昭和48年度通信白書 電電公社の情報通信事業,Dec.1974.
[2]高月敏晴,石川宏,“ディジタルデータ交換網,”信学誌,vol.61,no.12,pp.1341-1346,Dec.1978.
[3]石川宏,相沢洌,重松直樹,“高度電話網方式の構想,”信学技報,SE84-40,May1984.
[4]重松直樹,相沢洌,石川宏,“遠隔接続制御方式,”特許公報,特許1659797,Feb.27,1984.
[5]H.Ishikawa,“Newconcept in telecommunications network architecture,”NTTReview,vol.1,no.1,pp.79-86,1989.5.
[6]大貫雅史,石川宏,相沢洌,木村勝重,“マルチ接続による情報案内交換方式,”特許公報,特許1965318,Nov.22,1984.
[7]石川宏,パソコン・シミュレーション入門,企画センター,1983.
[8]石川宏,“サービス総合デジタル網,”信学誌,vol.70,no.11,pp.1171-1178,Nov.1987.
[9]石川宏,“ネットワークアーキテクチャとネットワークのオープン化,”信学論(B-I),vol.J74-B-I,no.11,pp.855-862,Nov.1991.
[10]鈴木滋彦,石川宏“,新ノードシステムの実用化,”信学誌,vol.81,no.8,pp.789-815,Aug.1998.
[11]宮津純一郎,NTT改革,NTT出版,2003.
[12]NTT広報部,“ネットワークのオープン化について,”NTT報道発表資料,1995.
[13]石川宏,福沢進,“ネットワークのオープン化―今後の通信産業の飛躍のために,”NTT技術ジャーナル,pp.12-15,Oct.1995.
[14]大宮知己,祖父江和夫,大西邦宏,“信号網接続の取り組み,”NTT技術ジャーナル,pp.30-36,Oct.1996.
[15]菱沼千明,石川宏,“着信選択方式,”特許公報,特許2577592,Jan.19,1988.
[16]NTT東日本,相互接続ガイドブック,http://www.ntt-east.co.jp/info-st/conguide/index-e.html
[17]郵政省,“日本電信電話株式会社の再編成に関する基本方針の公表,”報道発表資料,Dec.4,1997.
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